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SPECIAL

contents

  • vol.01

    上町台地とともに
    悠久の時を刻んできた
    玉造稲荷神社から歴史を紐解く。

  • vol.02

    子どもたちが
    安心して暮らせる街で
    国際教育にアクセス。

  • vol.03

    行きつけにしたいカフェ、
    特別な日のフレンチも、
    暮らしが華やぐ玉造のグルメ。

玉造稲荷神社(徒歩3分/約180m)

歴史に磨かれ、育まれてきた
暮らす都心にふさわしい上町台地、玉造。

上町台地は私たち積水ハウスにとって大切な場所。
理想の住まいを求めて、
幾つもの「グランドメゾン」を創造してきました。
ここ玉造も、古より人々が暮らしを営み、
悠久の時に磨かれてきた街。
都心ならではの便利さと静けさ、
自然の恵みと生活文化が脈々と息づく住環境は、
暮らしの理想を叶えるにふさわしい場所といえます。
そんなこの地の魅力を求めて、上町台地の要衝として
歴史を刻んできた玉造稲荷神社を訪ねました。

(取材協力:玉造稲荷神社)

古より時を積み重ねてきた
日本の中心。

新しい「グランドメゾン」が誕生する街、大阪市中央区玉造一丁目。上町台地の東に位置し、大通りから一歩入った住環境は、ここが都心であることをふと忘れさせてくれるような落ち着いた風情があります。中でも街の氏神様である玉造稲荷神社は、街の静穏を守るかのように、深緑の杜につつまれ、街に歴史の息吹を湛えています。玉造稲荷神社の歴史は古く、創祀は垂仁天皇18年(紀元前12年)。ご由緒には、「乙巳の変(645年大化の改新)」の後、大化2年(646年)には飛鳥より当神社社域である難波宮に都が遷されたと語られています。その後の政治改革はここで行われ、長きにわたって皇都・副都として日本古代史上に大きな役割を果たしたとあります。かつての上町台地の地形図を見ても、北西の難波津、東側穏やかな入り江の玉造など、外国からの高官、使節団、物資などを迎える水運、国際貿易の拠点として栄えたのも想像に難くありません。※

※出典参考:大阪千年都市[まちづくり物語]財団法人 大阪市都市工学情報センター発行

6~7世紀ころの摂津・河内・和泉の景観を参照[出典:地形からみた歴史~古代景観を復元する~日下雅義著]

6~7世紀ころの摂津・河内・和泉の景観を参照[出典:地形からみた歴史~古代景観を復元する~日下雅義著]

玉造の発祥は、
遥か古墳時代まで遡る。

そもそも大阪で最も古い歴史を持つ場所と言われている上町台地北側。約6000年前(縄文時代)、瀬戸内海の東端で、海水が流れ込む入り江を望む高台は、山海の幸に恵まれたことにより、早くから人々が営み始めました。玉造の名が見え始めるのは古墳時代。『日本書紀』には大和朝廷の専門職人(玉作部)の居住地であったことから、玉作(玉造)の地名になったといわれています。玉造稲荷神社の境内には、難波・玉造資料館があり、神社に伝わる古代玉遺物、全国各地より採掘された原石と玉類、玉作り工程などの展示が行われています。
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  • 「玉作岡」碑

    「玉作岡」碑

  • 難波・玉造資料館

    難波・玉造資料館

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大名・武家屋敷、
御伽衆が居宅とした惣構。

大阪城には、二の丸に通じる重要な4つの門(口)が構えられています。北西に京橋口、北東に青屋門、南西に大手門、そして南東に玉造口。それぞれに櫓、枡形虎口などの防御施設が置かれ堅固な守りが講じられていました。玉造口はさらに南に、守護の杜とした玉造稲荷神社が配され、さらに惣構として、前田、宇喜多、島津、鍋島、明石、細川、浅野などの錚々たる大名・武家屋敷が名を連ねていました。また、豊臣秀吉にとっての知恵の相談や雑談をする耳学問の師と呼ばれる御伽衆も旧玉造町※に集められておりました。

※旧玉造町:玉造一丁目、玉造二丁目、玉造本町、玉造元町。

惣構
豊臣時代の大阪城(製作:玉造稲荷神社)

豊臣時代の大阪城(製作:玉造稲荷神社)

徳川家は大阪再興を願って
船場を向いた。

「大坂の陣」の後、徳川家は大阪城の再建と大阪の復興に力を注ぎました。大阪城築城のために集められた職人は船場に住むことで、船場周辺に船宿、料亭、呉服商、両替商などが誕生し、築城と共に商都・大阪の骨格が生まれ、わが国の経済、流通の中心地となり、まさに現代大阪の基盤が完成されたといえます。当時、玉造稲荷神社も大阪の経済を見守るため、本殿は西向きに建てられ、船場の方を向いていたとも言われています。
摂津名所図会 豊津稲荷社(現:玉造稲荷神社)

摂津名所図会 豊津稲荷社(現:玉造稲荷神社)

玉造一丁目界隈は、
きれいな湧き水に育まれた清らかな地。

古来より玉造周辺は清水谷が近く、良質の水に恵まれていました。大名・武家屋敷と同じく屋敷を構えていた千利休、古田織部、武家で茶人の細川忠興もこの地で茶会を催したと言われています。また、玉造一丁目は、旧町名が東区玉造下清水町で、町内に「玉造清水」という名高い井戸があったそうです。井戸は、天保(1837)大浚渫の際、新たに掘られた玉造地域南部の猫間川に通じる運河工事で、残念ながら姿を消しましたが、この地の資質は、かつての光と水と緑が輝く、清らかな空気を今もなお湛えています。
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玉造稲荷神社 玉造稲荷神社
玉造稲荷神社Tamatsukuri Inari Shrine
豊臣・徳川時代を通じて大阪城の鎮守神として祀られた社。利休井戸があり豊臣秀吉などが、千利休のお点前で茶会を催していたと伝えられています。玉造稲荷神社は天正4年(1576)の兵乱やその後の大阪城落城、また第二次世界大戦時の大空襲などにより焼失し、
現在の社殿は戦後に再建されたもの。境内には秀頼奉納の鳥居や千利休の顕彰碑などのほか、難波玉造資料館もあり、古代土器など貴重な資料が展示されている。
  • 伏見橋旧跡

    伏見橋旧跡 (徒歩2分/約160m) Historic Site of Fushimi Bridge

    猫間川に流れ込む支流に架かっていた伏見橋。江戸時代から明治の終わり頃まで、この「井路(人工水路)」を利用し、猫間川まで荷物の運送を行っていたと言われている。

  • 越中井

    越中井 (徒歩9分/約690m) Ecchui Well

    細川忠興は、利休七哲(千利休の優れた弟子)の一人で、越中井はその邸内にあったといわれている井戸。屋敷は焼失したが井戸は焼け残り、今も市民の手で大切に保存されている。

  • 三光神社

    三光神社 (徒歩7分/約510m) Sanko Shrine

    真田幸村が大阪城までの抜け道と言われる地下道があることで知られる。境内をはじめ宰相山公園は桜の名所として毎年春は花見客で賑わう。

  • ※「大坂」の地名表記は、明治時代に「大阪」と統一されましたので、本文では史実名を除いて「大阪」と表記しています。
  • ※掲載の距離・徒歩分数は、地図上を計測し80m=1分として計算したものです。
  • ※掲載の環境写真は、2024年10月・2025年3月に撮影したものです。